第3回はバジル・ホーキンスです。
名前の由来は52巻SBSで明らかにされており、「16世紀イギリスの冒険家でプライベーティア”ジョン・ホーキンス”+17世紀海賊船医”バジル・リングローズ”」だそうです。
※私が調べた本はどれもジョン・ホーキン
ズとなっていたので、この記事ではホーキンズと表記します。
ジョン・ホーキンズはドレークと並んで「海の犬」の三巨頭に数えられる1人です。→
前回のドレーク編
しかし、ホーキンズはドレークとは180度違う考え方を持った人物で、彼はあくまでも
”商人”だったのです。
冒険家でもなく、プライベーティアでもなく、海賊でもなく、”商人”です。ですから基本的に掠奪を行っていません。
当時のイギリス海峡には、海賊船が約400隻も横行していたそうなのですが、その大部分がカトリックの船を狙うイギリスとフランスのプロテスタントでした。
カトリック国のスペインと
プロテスタント国のイギリスは表面上は同盟国でしたが、海上では熾烈な
宗教争いがあったというわけです。
そんな折、海賊行為に頼るのでなく、貿易で利益を生もうとする者も少なからずいました。
その代表的な人物が
ホーキンズです。
彼が生業としたのは
黒人奴隷貿易です。バジル・ホーキンスにピッタリなダークなイメージ。
←ジョン・ホーキンズ
どうです?それとなく悪そうでしょ?w
カリブ海方面のスペイン植民地では、はじめ現地人を労働力としていましたが、酷使しすぎて減少し、さらにカトリック信者になった現地人は保護せよという教会の御達しで、労働力不足が問題となっていました。
そこで、代わりに
アフリカの黒人を奴隷として使うことが推奨されました。
集められた黒人はポルトガル政府の許可を得たポルトガル人によって
スペイン植民地に運ばれるのが正規のルートで、誰もが取引できる情況ではありませんでした。
そのような情況にホーキンズは果敢に挑戦し、3度も奴隷貿易を行いました。
イギリス人であるホーキンズは正規の方法で貿易をすることはできません。
1回目の奴隷貿易(1562)では、嵐による緊急避難を装って入港し、スペイン人の総督に願い出ました。
「漂流して食料が不足し、その購入費も乏しいので、積荷の奴隷を処分させて欲しい」
総督 「・・・(本国から外国との貿易は禁止されているが応急処置ならば仕方あるまい)」
「・・・(それに黒人奴隷はのどから手が出るほど欲しい!)」
「よし、わかった。」
まんまと取引に成功したわけです・。・
2回目の奴隷貿易(1564)では、前回と同じ手口で奴隷を売り込もうとしましたが、1回目の奴隷貿易後にスペイン国王フェリペ2世が
全植民地に対して絶対に外国人と交易を行ってはいけないという厳令を出していたため、武力を誇示して半ば強引に商談を成立させました。
3回目の奴隷貿易(1567)はもっとも船団の規模が大きく、ホーキンズを慕って若きドレークも乗船していました。3回目ともなると、スペインの警戒も強くなっていましたが、植民地現地ではやはり黒人を渇望していたため、大抵うまく取引を済ませることが出来ました。
しかし、リオ・デ・ラ・アチャでは堡塁が築かれ、清水の補給ですら拒否され、発砲すらしてきました。
若きドレークは血気盛んでこれにすぐ応じ発砲をし返したため両者は一触即発の状態になりましたが、ホーキンズは冷静で文書で総督に和解を求め、平和的な交易を申請しました。しかし返事は得られず、やむなく武力でここを攻略し、「取引に応じなければ町を焼いて財宝を奪っていく」と総督を脅しました。
あっけなく攻略されたためスペイン側には1人も死傷者がなかったこともあり、総督はしぶしぶ取引に応じましたわけです。
攻略してそのまま掠奪していればただの海賊ですが、ホーキンズはただただ平和貿易を望む
”商人”だったのです。
メキシコ湾に入った一行はハリケーンに遭遇し、船体修理と食糧補給のため近くのサン・ファン・デ・ウルア(サンファン・ウルフに似てるね)に入港しました。しかし、運悪くこの港ではホーキンズ逮捕の密令をフェリペ2世より受けた大船団に遭遇し海戦になり、勝ち目なく死に物狂いで敗走しました。食料と船の被害は甚大で無事帰国できたのはホーキンズを含めてたったの15人でした。一方ドレークの船は開戦すぐにホーキンズの港外退避命令に対応し先に帰国していました。
ホーキンズという男はサン・ファン・デ・ウルフでひどい目に会ったのに、なお平和貿易を維持しようとしました。
骨の髄まで商人な男ですε- (´ー`*)
しかし、それは無理な段階までイギリスとスペインの関係は悪化していました。
ホーキンズはその後、義父の海軍主計長官の職を継ぎ、イギリス海軍の増強に腐心しました。
ホーキンズの手による、帆走性の高い改良型ガレオン船はアルマダ海戦で活躍し、その業績でホーキンズはナイトの称号を得ました。
そしてドレークとともに行った遠征の中、ドレークと同じく赤痢に倒れました。63歳でした。
ドレークより先に逝ったホーキンズは死を前にして大事にしていた
エメラルドの十字架をドレークに遺しました。ドレークにとってホーキンズは最初の指揮官であり恩人であり、やがてライバルとなり、相容れない性格のため晩年は口論ばかりしている仲でした。
十字架って、首もとのこれ(←)だったりして。・・・まさかね・。・
最後にちょっとカッコいいエピソード。話は3度目の奴隷貿易のとき、船員2人が些細な口論がきっかけで決闘騒ぎになった際のことです。
ホーキンズは決闘を許さず、一方の1人エドワード・ダッドリーを呼びつけたところ、ダッドリーは仲裁は余計なお世話と彼に剣を突き立てたのです。ホーキンズの意志ではありませんが、周囲のものたちによってダッドリーは間もなく捕縛されました。
司令官に対する反抗は重罪で死刑に値するのです。
(『海賊キャプテン・ドレーク』抜粋)
ダッドリーに対して「何の遺恨も持っていないが、女王陛下の代理としては司令官に対する反抗の罪を裁かざるを得ない」と厳かに宣言した。
無論、判決は死刑である。自ら銃を手にしたホーキンズは、習慣に従い、先例となる航海中の事件とその顛末を引用しながら、ダッドリーの非を諄々と説いて聞かせ、慎重に時間を稼いだ。やがて頃はよしと見たホーキンズはダッドリーに、「心の平安を神に祈る用意はできたか」と尋ねた。観念したダッドリーは素直に自分の罪を認め、いつ処刑されてもよいという態度で目を閉じた。ホーキンズは銃を上げて彼の胸に擬したが、すぐ思い直したように銃口を下げ、被告の拘束を解くよう命令した。
「裁きは終わった。君は自由だ」
かっけーw
ありがちな話ですが、史実であることに価値があります。
ダッドリーはこの事件で心底、ホーキンズに忠誠を誓ったのです。
しかし、その後黒人狩りの際に負傷し、数週間後あっけなく死んでしまいました。
おいっw
もう一方の名前の由来であるバジル・リングローズですが、彼はバッカニアであるバーソロミュー・シャープ(ちなみにバーソロミューがつく海賊は多いです)と一緒に周航した海賊です。
バッカニアとは17世紀カリブ海でスペインの宝船を狙ったイギリスやフランスなどの海賊のことです。
彼らの中には教育があり、自分たちの冒険行の日記をつけていたものがたくさんおり、こうした日記の多くは出版され人気を博しました。そうした者の1人がリングローズというわけです。
私が調べた限り「船医」という記述はありませんでしたが、教養があった人物だということです。
ホーキンズ、リングローズと戦闘を好まない知的なイメージが、バジル・ホーキンスというキャラクターに受け継がれているだろうと勝手に妄想して今回は終わることにします。
また長文になってしまったorz