第7回はユースタス・キッドの名前の由来であるウィリアム・キッドです。
※この記事は長文&ONE PIECEのエッセンスが非常に希薄です。
誕生日の記事はテキトー過ぎたので、今回はそのリベンジです。
前回はイギリス人と紹介しましたが、正確にはスコットランド人でした(キッド本人はイギリス人と自称)。
キッドが生まれた1645年ごろは、まだイングランド(イギリス)とスコットランドの合同(1707年)以前だからです。
まぁ、そんな細かいことはいいんですが、今回は(私の心象としてはしょぼい)キッドがどうして後世にも伝わる有名な海賊キャプテン・キッドになったかを説明できればと思います。
この戦争が始まる前はちょうどモーガンが海賊稼業から足を洗ったころ、すなわち海賊の取り締まりが強化されたバッカニアの衰退期で、バッカニアはカリブ海を追われて、この時期ニュー・イングランド(イギリスのアメリカ植民地)を基地としてマダガスカル島からインド洋方面に現れ、東インド会社の貿易船やムガル皇帝(ムガル帝国=当時インドのモンゴル人国家)の宝船を襲いはじめました。
これら海賊の中にはイギリス人が圧倒的に多く、これに御立腹なムガル皇帝は東インド会社を通じてイギリス政府に抗議し、もし海賊鎮圧に誠意を示さず、成果を挙げなかった場合は、会社を接収するか財産を没収すると圧力をかけたのでした。
・・・ピポパポピッ
<あのさー、マジムカつくんだよねー
ムガル皇帝アウラングゼブ
イギリスにとって東インド会社はアジアの重要拠点であり、これの如何は戦局に大きく影響するため、なんとかしたい問題でしたが、軍艦は拡大する戦地に出払っていて、この重要任務を私掠船に委ねることにしたわけです。
出資者には国璽尚書ジョン・サマーズ卿、海軍卿オーフォード伯、測量総監ロムニ伯、国務卿シュルーズベリ公という政府要職の錚錚たる面々が並び(後で重要になるので心に留めて置いてください)、私掠免許状に加えて、海賊鎮圧の委任状が国王の名で下付され、1696年キッドは私掠船船長として海に乗り出すことになりました。
キッドの航海は不漁続きでした。
ロンドンを出帆して大西洋を渡り、ニューヨークを経由して喜望峰を回り紅海にいたるまでに、小さなフランスの漁船を一隻拿捕しただけで、その収穫は船の補給に当てられたため、なんら収穫を得ていませんでした。つまりこの時まで(ロンドンから出帆して16ヶ月)、乗組員の収入は0だったというわけです。
それに加え、立ち寄った島の風土病で乗組員を数十名失い、船内には不穏の空気がみなぎっていました。
そういった船内をまとめ上げるため避けられなかったのか、キッドは今後は目の前に現れる一切の船を拿捕すると宣言しました。
これは実質的な海賊宣言であり、50歳過ぎの海賊キッドの誕生です。
この辺り、紅海付近の海峡は多くの貿易船が往来する絶好の海賊スポットでした。
ムガル皇帝がイギリスに訴えたのはまさにこうした海賊で、それを鎮圧するのがキッドの本来の任務だったのですから、”ミイラ取りがミイラ”になってしまったわけです。
船上のウィリアム・キッド
さて、私掠船は海賊船に変わったわけですが、その後も不漁が続き、船内の不満は積もる一方でした。
その最中、キッドの船は宝物を積んでるとみられるオランダ船と遭遇し、乗組員たちはキッドにこのオランダ船を拿捕しようと進言しましたが、キッドはそれに同意せず、乗組員の不満は一層膨れ上がったのです。
このキッドの心意は定かではありません。
しかし、すでに海賊行為に及んでいたキッドでしたが、なんとかなるという節があったのかもしれません(キッドは帰国後、海賊行為に対して大赦をもらえるよう手回しをしています)。
国王ウィリアム三世の母国であり、同盟国のオランダの船に手を出せば言い逃れの出来ないことになると判断したと考えられます。
オランダ船を見送って2週間たったある日、事件が起きました。
キッドが砲手のウィリアム・ムーアをいきなり怒鳴りつけたのです。
ムーアは仲間から信頼のあるベテランの乗組員で先のオランダ船を拿捕することを乗組員を代表して進言した人物でした。
キッドはムーアが先のオランダ船を見送った件で陰口を言っていると因縁をつけたのです。
ムーアは否定して口喧嘩になりましたが、ついにキッドが甲板にあった鉄の輪をはめた木のバケツでムーアを殴りつけ殺してしまいました。
キッドはこの事件でいい意味で吹っ切れたのか、その後拿捕した船より遠征で最大の収穫を得ることができ、一定の成果を得たため帰国の途につくことになりました。
さて、この頃にはすでに海賊キッドの噂は本国にも届いており、当然ムガル皇帝の耳にも入っており、イギリス政府の立場は甚だ厳しく、この件に緊急に対処する必要がありました。
・・・ピポパポピッ
<ちょっとさー、ぼく朕(ちん)マジで切れる5秒前、MK5よ
ムガル皇帝アウラングゼブ
そこで緊急措置としてインド洋方面にて大々的な赦免布告を行うことで、海賊対策を行い誠意を示したのでした。
なお、この赦免にキッドは除外されていました。
このあと結局キッドは逮捕され、議会の審問、裁判に臨みます。
ここまで見てきたようにキッドの海賊行為は特筆するようなことはなく、またドレークのように英雄的な活躍をしたわけでもありません。
しかし、一海賊が議会に召喚されることなど前代未聞、未曾有の事態です。
ウィッグ党とトーリー党
当時のイギリス議会は、国王に信頼された与党のウィッグ党と政府の反対党であるトーリー党の政治闘争が熾烈を極め、イギリス国民にとって全く無益に終わった今回のフランスとの戦争にはじめから反対だったトーリー党が徐々に優位になりはじめていました。
また、ウィッグ党の政府高官らの政治汚職も問題となっていました。
そこにきて、舞い込んだキッドの件はトーリー党にとって、ウィッグ党を責め立てるうってつけのネタだったのです。
今回のキッドの遠征の出資者である政府高官の4貴族はウィッグ党の者たちだったからです。
彼らは私利私欲のために、海賊行為を行うべく特別訓令を与えて今回の遠征を計画したという噂がロンドンっ子の間で飛び交っていたほどです。
もちろんこの噂はトーリー党側が流したものでしたが、それを差し引いても、市民には政府への不信感が高まっていたのは確かです。
キッドの裁判
そうした中で行われたキッドの裁判は大変な注目を浴びたわけです。
キッドの訴因は6つあり、1つはムーアの殺人行為、残りは海賊行為に対してで、それら全て有罪になり死刑の宣告がされました。海賊行為よりむしろムーアの殺人が決め手の裁判でした。
見せしめの絞首刑
テムズ河畔の絞首台に臨んだキッドは、見物に来ている群集に挨拶を行い、ここを往来するすべての船長が「自分の運命から教訓を受けるといい」と警告を残して処刑台のはしごを昇ったそうです。
キッドの死骸は保存のためタールを塗られ鉄の輪をはめられてテムズ河上に吊るされ、その後数年間、往来する船乗りたちに警告を続けたのです。
テムズ河上に吊り下げられたキッドの死体
鳥についばまれた死体がぶら下がる景色は想像するだけで恐ろしいですね。
この見せしめはある程度効果があり、ムガル皇帝の怒りを鎮めるのに役立ったといいます。
<最近近海を襲う海賊減ったし、構わんよ
ムガル皇帝アウラングゼブ
さて、裁判そのものは慎重に”ほぼ”公平に行われたらしいのですが、市民にはそう受け取られなかったみたいです。
なにか政府の黒々しいものを直感的に感じとり、”スケープゴート”にされてしまった哀れなこの一海賊に同情を感じたのかもしれません。
18世紀の捕鯨船で人気になった『キャプテン・キッドのバラード』抜粋
俺の名前はロバート・キッド、俺が航海した頃は、航海していた頃は
俺の名前はロバート・キッド、俺が航海した頃は、航海していた頃は
俺はお上の法を破り、ひどいことをしたものさ、俺が航海していた頃は
それでも最後はしてやられ、罪を贖うことになり、罪を贖うことになり
それでも最後はしてやられ、罪を贖うことになり、罪を贖うことになり
それでも最後はしてやられ、入れられたのは牢獄さ
刑が言い渡されたあと、罪を贖うことになり
首吊り台の坂の上、俺は進んでいかねばならぬ、行かねばならぬ
首吊り台の坂の上、俺は進んでいかねばならぬ、行かねばならぬ
首吊り台の周りには、わんさと人が押しかけて、俺の死ぬのを持っている
お前たちのへの見せしめに、俺はこうして死んでいく、俺はこうして死んでいく
お前たちのへの見せしめに、俺はこうして死んでいく、俺はこうして死んでいく
お前たちへの見せしめに
悪い仲間は避けたがいいぞ
俺のようになりたくなけりゃ、俺のように死にたくなけりゃ
17世紀末、一応の平和を得て、海賊は「人類共同の敵」となり、権力によって保護された私掠船 Privateerから純粋な海賊 Piratesへと分岐する時代の中で、私掠船船長から海賊になったキッドの運命は興味深く、新たな海賊時代への最初の見せしめとなったのは感慨深いものがあります。
ちなみにキッドの名前の由来の片割れである13世紀の海賊僧侶ユースタスはおそらくこれでしょう↓
どれがユースタスなのか分かりませんがw
調べてやっと見つけたのがウスタシュ(Eustache)となっていたので、フランス人っぽいです。
ウスタシュは英語読みのユースタス(Eustace)に相当します。
13、14世紀のイギリス海峡や大西洋は無法地帯で、海賊行為を行っていたのは貴族たちでした。
彼らは武装した捕鯨船で密貿易や海賊行為で財を増やしていました。
見つけた記述には
1217年、修道士ウスタッシュは、カレー海峡(ドーバー海峡のフランスでの呼び方)で一隻の船を襲撃した。敵船に乗り込むのを容易にするために、接舷鉤を使って船縁同士を固定した。
とありました。
修道士には”元”をつけた方が正しいかもしれません。
司祭職を捨てた修道士は、海賊になる者が多かったようで、それほど当時はおいしい職業だったようです。